友達が亡くなった
この時のことを忘れない為にここに記す。
友達が亡くなった。
急なお知らせだった。体調不良を訴え、検査をしたところ即入院。入院した時点で体も心もギリギリの状態だったらしく、そのままあっという間にいってしまった。
最近は数年に一度会うぐらいだったけど。20代を一緒に遊んだ友達はかけがえのないものである。
式などはせず家族とごく一部の友達で火葬をした。
彼女のお棺の中に花を入れ、妹さんがスマホで彼女の大好きな曲を耳元で聞かせた。
みんなでお棺の蓋を閉め、持ち抱えて霊柩車まではこんだ。
お棺の中の彼女は病気でむくんでいて誰かわからないくらいだったが、今まで見た数人の「死んだ人」の中では、変な話だが一番生気があり、今にも目を開けそうだった。でもほっぺたはゼリーのように冷たかった。
その後の火葬場では、さっきまで肉体のあったものが、たった数時間であっという間に骨になった。
思っていたよりも随分軽い骨を骨壺にいれながら、人間てなんてあっけないんだと思った。
どんなに濃度の濃い人生だろうが、短い人生だろうが長かろうが、死んでしまえば、オートメンション化された焼却炉であっという間に骨になる。
人間が骨になる過程がもっと複雑で大変で時間のかかるものだったらよかったのにと思う。
なんだかあの世から「漢方、人間の骨みるの初めてやろー?」と友達がニヤリとしながら言っている気がした。
数年前に彼女と会ったときにラインを交換した。それから毎日毎日、〇〇時〇〇分に一分の狂いもなく柳沢慎吾のスタンプが送られてくるようになった。
タイマー送信でもしているのかと聞くと、その時間を待ち構えて送信していると笑った。
それが何の意味があるのかわからないが、めんどくさいからやめようよーというと、通知オフにしてくれればいいといった。
ある時はチュパカブラをもじった裏アカウントで本人と名乗らず、
「初めまして、フォローさせていただきました。ヤギが主食のマクロビアンです。」
とツイッターフォローしてきて、また変な人にロックオンされたー!とガクブルしていたのに、その語り口調の 小気味よさに、もしかして君かい?と問うてみればまさしく彼女であった。
そんなちょっとめんどくさい所もあった彼女だが、それでも友達だったのは圧倒的に面白かったからである。
私は昔偽オカルト番組を見すぎて、
もう霊なんていない。全部でたらめだ!
と彼女に言ったとき、ニヤリとしながら一枚の写真を見せてくれた。それは少し大きな地震がおこった夜、何気なく部屋の写真を撮ってみると、ブラウン管のテレビの画面いっぱいに、彼女の父親の顔がズガーンと映っていた。
当日父親は出張中であり、地震で家族が心配になったため生霊であらわれたのだという。しかもその父親の姿は当時の姿ではなく、若い時にしていたかなりパンチの利いたアフロ姿だったのだ。
すごい!霊いるじゃーん(生霊だけど)と盛り上がった。
ある時は久しぶりにあった彼女に
「今なんの仕事しよーと?」
と聞いてみるとやはりニヤリとしながら
「今、ひよこの雄雌みわける仕事しよーとって!」
なんそれ!すごい!!といって盛り上がった。
もうあの小気味いい話が聞けなくなるのはさみしい。
亡くなってこの世にバイバイした者より、残された人たちはこの悲しさを耐えて生きなければいけない。
実は先ほどのアフロお父様も去年の年末にご病気で亡くなったと聞いた。とても良いご家族なので見ていてとても胸が痛かった。
改めて生きるという事は気合がいることだと感じる。
人は何かの使命を終えて生まれ変わるとするのならば、私の今は何をするためなのだろう。
楽しいことがあれば生きていてよかったと思う事と、ちょっと気を抜くと何のために生きているのかという虚しさが日に日に増してくる。
だがしかし、私はもうちょっとこちらにいるよ。むこういったらヒヨコの見分け方おしえてくれ。
今度のライブは君の好きな平沢進しようかな(難関すぎる!)少しの間さようなら。
花に嵐のたとえもあるさ。サヨナラだけが人生だ